ggihu

無になりたいときに書きます

生に無気力な人間がロボットについて思う事

 

私はいつでもロボットになりたいという願望をもっている

アナログで不規則な周期音を立てながら反復を行うロボットに私があこがれる理由は二つある。

生産され、今まで稼働してきた時間を経た周期の重み。

そして、ロボットが生産されてから壊されるまでの論理の道筋が大抵の場合一貫しているという事だ。

作るために作られ、不必要になれば壊される。そこには感情や意向がなく、ただそれを使う人の論理だけがある。

私には人間が一切の苦痛を感じずに生きようとすればそういった機械的な論理に身を任せるしかないのではと思っている。

そういう意味では、私はAI、シンギュラリティ後の社会に期待している。人間性の廃棄という意味でだ。

それは人々が対人の欲求から解放されるという「人間性の捨て」を経ることで、個々の機械性を逆説的に認識すると考えているからだ。

私たち人間が対人的な欲求から解放されたらどうなるだろうか?欲求を人ではなく機械が完全に満たしてくれるようになったらどうなるか?

私が言いたいのは何も無気力であるとかいうそういった類の話ではない。いわゆる意欲的に行動する人々(以下その個々人が個人の趣向、意志を行動の原理に持っている人としてこの語を用いる)も、それが機械の倫理に包括されたときどうなるか、も含まれている(この部分は自分でも詭弁だと思う 第一私は意欲的な人間ではないからその気持ちがわからない 意欲的な人達 どうです?)(その趣向、意思は機械の論理に歯が立ちますか?勃つ!?すげぇなぁおい)

機械が行うのは純粋な論理と手順の反復である。それが私たちの全ての欲求に沿うよう、しなやかに、ぴったりと合う形での動作になったとき、私たちは人間としてその論理を受け入れられるだろうか。既にそれは欲求を生産する機械になるのではないか。生活周期、社会的ポジションにのっとって必要となる業務の遂行、文化における通過儀礼とそれを促進させる機構。私たちは人間から機械になる間の時代にいる。生まれる時代を300年間違えたと思っている。前後は問わない。飛ばしてくれ。前ならこんなことは考えずに畑を耕すし、後ならおれはゆっくりと本を読みたい。(10分ぐらい

(反省)

言葉の定義の仕方が糞だ 本を読みます